子供への虐待は何故多いのか?

子供への虐待は何故多いのか?

カテゴリー:円龍寺住職のお話

小学校への登校中、「おはよう。行ってらっしゃい。」と声を掛けられて、「行ってきます。」と挨拶を交わしていました。相手は近所のおじさん、おばさんだったり、或いはしらないひとだったり・・・。けれどもその一言のやり取りだけで、嬉しかったです。「今日も頑張ろう」というエネルギーが沸いていました。夏の炎天下の下校中、水筒は空っぽで、上り坂の上には蜃気楼が見えていて、小学生の私は、友達2人と、無言で重い足を引きずっていました。坂道の途中、右側にあった一軒のお家にポンプ式の井戸がありました。3人の子どもは、何も言わずに井戸へ近づいてポンプを上げたりおろしたりして、冷たい水を飲みました。そのお家に断りもなしで…。けれども、そこのおじさんは、3人をじっと見守ってくれていたのです。いいえ、私達だけでなく、坂道を通る小学生みんなをも見守ってくれていたのです。

先日のニュースで5歳の女の子が、両親へあてた手紙に「許してください。」と必死で綴っていました。虐待の末に亡くなっていった幼い命を思うと、どんなに寂しかったろう、辛かったろう、悲しかったろうと、まだまだ言葉では表せない、いろんな感情が頭をめぐります。

私が幼い頃は先に記したように、親だけではなく、隣近所や他人も子ども達を見守って育ててくれていました。社会情勢や時代が変わった今、子どもだけではなく、親たちも孤独の真っただ中にいるのでしょうか?「誰にも迷惑をかけたくない。」なんて言わずに、電車の中で子供が泣いたら、「すみません。」の一言であやし続けて良いのです。「うるさい。」なんていうわからず屋は無視してください。子供は泣くのが当たり前です。みんなそうやって、大人になっているのです。大人たちももっとおせっかいになったほうが良いと思います。子どもが泣いたら、「抱っこしてあげる。」と、若い母親に手を差し伸べて良いと思います。「関わり合いになりたくない。」なんて言うから若い親たちも遠慮するのです。

小さな命が虐待の末に奪われていくたびに,「児童相談所が悪い。」とかいう意見が出てきますが、私達ができることをできる範囲でやっていければ…と思います。知らない子供にも、挨拶をするとか、近所の子どもの名前を知っておくとか、学年を知っておくとかそんなことから始めても良いと思います。

子どもは宝物です。犬でも猫でも我が子を一生懸命育てます。

「さるべき業縁のもよおさば いかなるふるまいもすべし」 (歎異抄より)